やりたいことをやると自分を取りもどせる

さいころは毎日ワクワクしていた。

 

ある程度の年齢になって"学校"と呼ばれる洗〇施設にブチ込まれ、虐待を受け、そこで刷り込まれた狂った価値観によって大学に進学し、会社に入ってまた虐待を受けた。

 

しかし振り返ってみて、"社会"と呼ばれているものの正体がただの洗〇による嘘の概念であることがわかると、もう関心を払う価値がないことがわかった。それは俎上にのせる価値も怒(いか)る価値もない。このようなインチキをやっている連中は人々を怒らせたい、恐れさせたい、そうしてとにかく興味を引きたいのである。

 

まともに相手をする価値がまったくなく、また相手をすることは一番の悪手でもある。

連中は人々がふつう持っている良心を持っていない。だからまったく別の文脈で思考しており、そもそも住む世界が違うのである。

 

怒りは期待から生まれ、その期待は自分たちと同じ"心"を持っているという前提から生まれる。

 

そもそも連中は"心"を持っておらず、自分たちとはまったく別の存在なのである。だから連中に怒ったり、憎んだり、恐れたり、ありとあらゆる関心をもつことはまったくお門違いの反応であるし、一番の悪手なのである。連中はそのような感情をエサにしているのである。

 

ようするに連中は「鮎の友釣り」をやっているのである

(「鮎の友釣り」はおとりの鮎をほかの鮎の縄張りに入れ、それに怒って攻撃してきた鮎を針にかける釣法。つまり挑発して我を忘れさせ、足をすくうのである)。

 

"学校"に入り、学年が上がってくると心がすさみ、自分が自分でなくなっていた。小さいころに感じていた嬉しさや楽しさを感じることができなくなってしまっていた。

 

最近、ほんの少しでもいいから自分の好きなことをやっていると、小さいころに感じていた嬉しさや楽しさがよみがえってきた。心が自分に戻ってきた感じがする。

 

硬直していた心や感情がふたたび動き出し、ある種の感覚が取り戻されるのを感じる。ただ普通に生活しているだけであれこれ楽しいことがあるのである。それは自分の心のなかにあることなので、人には決してわからない。ただ貧乏暮らしをしているようにしか見えないかもしれない。しかし人からどう思われるかなど、いろんな意味でどうでもいいのである。