「コントロールしない=幸せ」である説

他人をコントロールしない。

これが幸せであるような気がする。

 

逆にコントロールしようとすることが不幸であると思う。

私のこれまでの人生を振り返ってみるとまったくこの通りである。

 

他人に自分の主義や好みを押し付けない、特定の行動をとることを要求しない。これは自分を自由に、快適にしてくれる。そして自分に活力を与えてくれる

(ただしなんらかの他人への働きかけ=コントロールではないと思う。心の奥で要求しているのとただの親切心や自己表現としての他人への教授は感情として全然別物だと思う)。

 

逆に押し付けをする人はなにかストレスを感じている。そうでなければ押し付けをしない。

 

そして押し付けられた方は嫌な気分である。自分にはあきらかに不要な考え・行動であるのに、それを相手に納得させることはほとんどの場合不可能なのである。ため息をつくしかできない。

 

あらゆるコントロールは嫌な感じがするのである。コントロールの意思は物理的な腐敗現象と酷似している。コントロールしようとする行動にはなにか腐臭のようなものを感じるのである。そして他人のエネルギーをバンパイアしていくのである。

 

では、自分を表現することとコントロールしようとする意思を究極的に分けるものはなんだろうか?

 

要求が明示的か暗黙的かは関係ないように思う。はっきり要求されても、湾曲的に要求されても嫌なもんは嫌である。

 

深淵すぎて、難しすぎてバンッと説明はできないが、根源的な命の危機を感じており、それを他人を操作することによって解消しようとする心の動きがコントロールになるように思う。

身体への直接の危機だけでなく、お金や地位を守ろうとする動機も上記に含まれると思う。

 

他人から見れば、上記の動機はほとんどの場合で状況の誤認であると思うし、仮に事実であっても、コントロールされる筋合いはない。

 

コントロールの意思は腐臭がして、醜く、馬鹿げている。

 

これを私がブログを書くときに当てはめてみる。

単純に面白いと思ってブログを書くのは、純粋な表現である。

「毎日書かなきゃ」と思って書くのはコントロールである。

自戒したい。