【ブログ終了す】頭と心が別々のことを言ったら…
頭と心が別々のことを言ったら心のほうを信用する。
間違えないけど、それで間違えたとしてもあきらめがつく。
頭を信用した場合、後悔してもしきれない。
私はもう本格的に頭で考えるのをやめて、完全に感覚で生きることにシフトしようと思う。
頭が処理する概念はほとほとイケてない…。
チョーキング実験も加速させる。
この2つをやると必然的にこのブログが書けなくなる。
文章って概念的だし、チョーキング実験をやると詐術の話はできなくなる。アホなことにアホなことだと指摘し続けてるとそこから離れられないので。
というわけでもしこのブログを純粋な動機で読んでくれている方がいたら、突然だけどこのブログ(=記事の新規作成)を終了するとお知らせしなければならない。
読んでくれてありがとう。またどこかで。
理性よりも感覚を優先して判断する
今日また感覚よりも理性を信用して裏切られてしまった。
"社会的信用"はまやかしだ。
二度とこの間違いを繰り返さないように記録しておこう。
(※それなりにおもろいエピソードだけど、詳細に書くとしょうもないしがらみを呼び寄せることになるので起こったことの内容は省かせてもらう)
どれほど"社会的信用"が高かろうと違和感を感じたり、嫌な感じがしたらその場で関わるのをやめる。
逆に"社会的信用"を度外視して感覚がOKならOK。そこで裏切られてもまだ納得感がある。後悔はない。
あと私は人の雰囲気や場の雰囲気にかなり同調(共振、共感)するたちだ。
自然豊かな場所ならともかく、このネガティブの吹き溜まりみたいな土地でそれをやってはいけない。
共振したところで別段 人のためにもならんし、自分に尋常じゃないダメージを食らうので、もうやめる。なんか見捨てるようでなんとも言えない感情だが。
しかし結構長い間この土地で暮らしてきて、最終的に出た大正解の答えが上記だ。
見てる人がいるか知らんが、このおもちゃの街で暮らすのに必要なことを大インターネットで共有しとこう。
①好きな人や場所を除き、人やその場の雰囲気と一切共振しない、同化しようとしないこと。エネルギーを吸い取られて、ネガティブに侵されるため。
②"社会的信用"を一切信用しないこと。理性より感覚や雰囲気の良しあしを判断基準にする(必要なときは感覚を使い、普段は同調しないという意味)。
今日、すべての選択はある意味"賭け"なんだと悟った。
であれば、できることは真剣に選ぶことと、後悔しない決め方をすること。
コントロールする者は力を持っていない
コントロールする者、詐術を行う者に現実の物理をどうこうする力はない。
対象の人間の認識を操作することで、その人自身が自ら進んで所望の状況に陥るようにしているだけ。その人自身の力を利用しているだけ。
世界の根底の力はそんなこととは無関係に動いている。
狂った思想が常識の世界
学校やメディアで刷り込まれたことはもちろんだけど、たまたま出会った人や身近な人から聞いた思想もすべてが狂っていたように思う。
その人が悪いと言いたいのではなく、狂った思想が常識になっている変な世界なんだな、てことが言いたい。
初詣に行くのをやめたあと
あらゆる存在に拝むのをやめた。初詣も行くのをやめた。
調子いい。実感としていい感じ。
自分の自由意志と存在の意味と生の喜びの関係に注目するにつけ、考えれば考えるほど、拝まないことが必然的な行動に思えてくる。
嫌なことに慣れると…
嫌なことを強制されてそれに慣れてしまうと現実との歯車の嚙み合わせが狂っていく。
超シンプルな原理。
掃除ってなんだろう
掃除って結構深い。
掃除の技能って結構無限に追及できそうな感じがある。
しかしどうしてほっとくと部屋に埃やゴミがたまるのだろう。
埃やゴミがたまっている光景がどうして心のエネルギーを奪っていくのだろう。
埃やゴミがたまるってなんなんだろう。背後にどういう力が働いていて、どういう因果関係になっているのだろう。
掃除をしまくるとなんか新しい光景が見えてきそうな感じがある。