世界と自分、実在しているのはどっち?

常識的な見方は「世界が物理的に存在していて、我々人間や動物はもろにその影響下にあるか弱い存在」というもの。

もうひとつの見方は人間がまず存在していて、自分の知覚しうる範囲にだけ世界が存在しているという見方。

オープンワールドゲームは内部プログラム的にはカメラ画角に写る、もしくは写る可能性のある部分だけ3Dモデルやテクスチャなどがメモリにロードされて描画される。つまりカメラに映る部分にだけ世界が存在するのである。

現実もこのような仕組みではないかというのがこの見方である。

 

常識的には前者だが、後者が間違いであるとは人間にはだれも証明できないはずだ。

証明できないどころか、量子力学とかいう分野では観測の有無が実際の物理に作用することが確認されており、俄然後者の見方を無視できない状況だ。

 

後者が真であればなにが良いかというと、自己の心身の自由がはっきり認識できるのがすごく良いのである。だからどこで、だれが、なにをしてようがまともに取り合わなくてよくなる。それはその存在の世界であって、自分の世界ではないからである。それは世界そのものであったり、または世界の一部ではないからである。あつ森の他人の部屋みたいなもので自分から見に行かない限り、自分には一切影響しないのである。

完全に自己の自由にだけ焦点を当てていればいいのがすごく良いのである。

 

どちらが真なのか私にはわからないが、ここでデカルトの「我思う、故に我在り 」理論を持ち出すと(私はこの命題をすでに原理として使う)、自分も客体も存在として少なくともイーブンの重みである。そうであるならばやはり自分は完全に自由だということになる。

 

なぜなら別の意識体と近いところでは干渉があるかもしれないが、それ以外の場所では自由というか空白であると想像されるためである。