エナバンチームとポジティブチーム

エナバンチームとポジティブチーム(もしくは心チーム)を対立項として想定してみる。

この2つを距離をおいて、冷静に眺めてみる。

するとポジティブチームにはポジティブチームの、エナバンチームにはエナバンチームの"物理"が存在してやいないか?それぞれにそれぞれの道理が存在してやいないか?そしてこの2つは二元論の性質として相補的な関係にないか?

 

だから表層的な感情の好き嫌いの問題ではなく、自分が感覚を鋭敏にして魂的にどちらを選びたいかが問題とされているのではないかと思い至る。

 

しかしエナバンチームとポジティブチームを二元論で考えてしまって本当によいのかな?

エナバンチームにはそもそも自由がないではないか。そんなものが対立項になりうるのか。またエナバンチームのやり口はある意味人間を超えているが手下や構成員の考えはつまらんじゃないか。ビジュアル的にも嫌である。

 

エナバンチームとポジティブチームという捉え方がそもそも違うのではないか?

(私にとって)「生きること」と「生きないこと」と捉えるとどうだろうか。

生きることの反対は死ぬことではないのだ。エナバンチーム配下の状態が生きることの反対なのだ。

そのようにとらえれば、すべて辻褄が合わないか?

そのように考えるとエナバンチームの存在にも必然性が出てこないだろうか?

 

これは大発見だ。

 

私のこの方面への知見の高まりもそのような方向に向かっているような感じがする。

すべて勘違いの可能性もあるが😂

 

(余談だがエナバンが使う術数は人々からエネルギーをちゅーちゅーするものであるのと同時に人々自体をエナバン化させるものでもある。人々をエナバン方向へ向かわせるものなのである。要するにエナバンは分離の存在であり、人々の分離意識に憑りつき、それを促進するのである。)