「現実」に縛り付けたい

連中は人々を「現実」に縛り付けたい。

だからつぎからつぎにいろんなことを起こして、深刻なことが起こっていると演出するのだ。

 

しかし以前の記事にも書いたが実は現実こそバーチャルであるかもしれないのだ。

 

「絶対的な物質世界が存在しており、人間はその支配下にいる」というのが常識的な認識だが、本当はそうではなくその人の知覚できる範囲にだけ世界が存在しているかもしれないのだ。

オープンワールドゲームに例えると、内部プログラム的に、プレイヤーの視界にのみ地面や建物や空が描画され、その世界が存在している。一方、プレイヤーの死角にはなにも存在していない。山や建物の向こう側や地面の下にはなにも存在していないのだ。現実もそうなっているかもしれないのだ。"観測"が実際の物理に作用することは量子力学という分野の実験で確認されている。

わかりにくいのでさらに補足する。みなが存在していると思っており、自分たちがそこに存在していると思っている単一の共通の世界が、実は物理的に存在していないという意味である。伝わるだろうか。

 

自分には自分の世界があり、他人には他人の世界がそれぞれ"物理的に"ある。人同士が近づくとこの世界が部分的に交わる。離れると世界も離れる。

 

だれがどこでどんな行動をとろうと自分とは別の世界のことで関係がないのである。極論、自分の世界では実際にそれが起こっていないのである。

しかしそれに意識を向けると、それは自分の世界で実際に起こっていることになる。深刻さを演出して多くの人にそれに意識を向けさせ、その者の世界に自分の世界を繋げさせる。そうすることによって繋げた人々を支配できるということらしい。

人々は世界は単一であると思っており、反対に連中は真相を知っているのだ。

 

そのために連中はつぎからつぎに深刻なことが起こっているように演出しているらしいのである。もはや不自然なほどに。

 

もちろん上記の説には疑問点もある。例えば自分の住む場所で雨が降った日に、天気予報で別の県も雨だと知る。実際にそこの知り合いに確認すると雨が降っている。これは世界が単一の物質世界である証拠にならないかという点。反駁の仮説は考えつくので、これだけではどちらとも言えないと私は思う。たとえば共通の事象を経験するためには必ずしもそれが単一の物質世界や同一の原因によって実現されることを必要としない。

 

また他者が自分にたいして良い出来事であれ、悪い出来事であれ、嘘の出来事であれ、本当の出来事であれ、見せることができるのはなぜか理由が不明であるし、見せられるならばその出来事は実際に起こっているのではないかという疑問もある。これも反駁は考えられるので、これだけではどちらとも言えないと私は思っている。