卒業する方法

この記事では卒業する方法についてあれこれ考えてみたことをとりとめなく書く。

 

文脈の説明はほぼしないため、人によっては意味不明な文章にみえることを最初に断っておく。

 

卒業とは現世からの卒業という意味である。なお自〇のことではない。

なぜ卒業せねばならぬのかというと、もうすでに修了しているからである。

(この部分について、つまらぬ難癖を見越して言っておくとこれからもアイスクリームやクラフトコーラを作ったりして遊び倒していく所存だ)

 

しかし外界は外界のままであり、取り立ててなにか積極的な働きかけの必要性はない。

後ろ髪を引かれるのはいまも嘘を信じてさまよっているたくさんの人たちのことである。

ただ以前も書いたが考えを変えてほしいと思って、全身全霊で訴えても誰も聞きやしないのである。なぜなら噓を信じるのもその人の自由であり、その人がそうしたいと思っていることだからである。もともと情報はすべてオープンにされており、どのような考えもできるし、してよい状況なのである。

 

そういう人たちに自分ができることはないし、一方で自分は卒業せねばならない。

しかしそれはそういう人たちを見捨てる覚悟をすることであり、それが悲しいのである。実際は見捨てるのではなく、その人たちの自由を尊重することなのだが、決別する覚悟をもつことは見捨てることと心情的にかなり似ている(予感がしている)。

いままで「なぜ?どうしてそんな考えをするの?なぜそんなことを信じているの?なぜ?」と何度心の中で思ったかしれない。

が、結局 真相は幼少のときの心で直感的に感じたことだった。

 

そしてもう一つ、大多数の人たちが(信じなくてもいいから)自分と同じ視点を持ってくれると、孤独でなくなり、心情的にものすごく楽になり、ホッと落ち着けるのである。

しかしそんなことは原理的にありえない。自分が具合が良くないと思っている環境から自分が出ることなしにその原因を知ることなんてできないだろうから。五右衛門風呂に入っててあちーなと思っても、風呂から出ないとどういう状況なのかわからないし、なにもできない((風呂というものを知らない状態で)焚きすぎとわかるのは一度でも外から五右衛門風呂を見たことがある場合だけ)。

 

さて肝心の卒業する方法についてだが、まずは五右衛門風呂を出る覚悟を決めることだと思う。あとは心が導いてくれると思っている。