人生の焦点にフォーカスしようとすると妨害が入る説

たんなる私の仮説である。同意してほしいわけではないし、大意を了解してくれる人も少ないだろうと思う。

 

その人にとって、私にとって、人生の核になるようなものはそれぞれあるように思う。

それは人によってそれぞれ別のテーマなのである。

 

人生はそれに集中させないよう、邪魔をしてくるように思う。

ラクタの価値観や認識や知識を刷り込まれ、どうでもいいことに時間と体力を使わされ、悩ませ、気を散らせ、ある時は脅迫し、ある時は篭絡し、そうやって無駄に時間を使わせて人生を終わらせようとしているように思う。この環境は。

 

人生は本当はもっと単純なように思う。そうでなければ自分の現実感覚とフィットしない。ただ自分のテーマを見つけて、それに集中するだけでよいのではないかと思う。

 

自己から離れたことに掛かりきりになっているときは、なにもないのである。ストレスフルではあるが、ある意味なにも邪魔がなく、なにも起きないのである。その罠が奏功している状態だからである。

自分の人生のテーマにフォーカスしようとしたとき、それを見つけようとしたとき、いっきにいろんな妨害が襲ってくるように思う。

外的な要素もあるし、様々な不安感にもさいなまれる。気を散らせるようなことにも頻繁に遭遇する。

 

こう思うのは、幼少期もふくめ、いままでの人生を振り返ってみると、「あの人がああしてくれてさえいれば」だとか「あの人があんなことさえしなければ」みたいなことばかりがあって、それがいまでも私の重荷になっている。そしてそれらは大抵 非常に馬鹿げているのである。理解できないほど、筋が通らないと思うほど不自然なのである。

 

それでなにか不審に感じたのである。なにか作為的な感じすらしないか?と。

ここまでを読んで、意味がわからないと感じる人がほとんどだと思う。

つまり人生には、だれが作ったか知れない"罠"があると言いたいのである。

宇宙か神か宇宙人か人間かわからないが、だれかがつくった作為的な罠が存在しているのではないかと言いたいのである。

 

誤解があるかもしれない。

私が人生の性質を考えるにあたって、仮想的な機構のシンボルとして「罠」という言葉を使っていると思われるかもしれない。

ちがう。本当に作為的な罠が仕掛けられていると言っているのである。

 

話は変わるが、鋭い感覚を持ち、自由に自分の思想を表現できるミュージシャンはみな夭折している。

 

人生の焦点とはなんだろう。どういうものなのだろう。いいことなのだろうか、わるいことなのだろうか。突き詰めると人生は怖い思いをするためにあるのだろうか、それとも満ち足りた幸福のためにあるのだろうか。その答えと人生の焦点はイコールである。