依存心が他人の動向を気にさせる
社会で行われている下らない詐術はタネが分かればなんともない。
しかし人々はなぜこれに気づかぬのだろうとやきもきする(私も完全に自力で気づいたわけではないが…)。
これは私のほうに問題があるのかもしれない。
どこかで依存心があるから、人々の動向が気になってしまうのではないか。
自立する決心があれば人がなにをしていようが気にならないのではないか。
良い気分が良い現実をつくる
良い気分は良い現実を創造していく(良い気分とは酒を飲んだときのような気分のことではない)。それを身をもって確認できた。
逆に悪い気分は悪い現実を創造する。
全部、気分次第だ。だから気分は超大事。
というより、現実を度外視しても鬱々とした気分や恐れをもって生活をおくるなんてまっぴら嫌だね。
ただ人々にそうあって欲しいと思っている者がいて、実際にその詐術はずっと行われている。
良薬口に苦しは嘘
直感的にめんどくさそうと感じるものはやってみるとマジでめんどくさい。
これが私が人生で発見した法則。大インターネットにて共有する。
また直感的に嫌だと感じたものは、結局 自分にとって必要でなかったと思う。
良薬は口に苦しは嘘と思う。
日本人が一般的に英語のリスニングが苦手な理由
日本人は一般的に英語のリスニングが苦手だと思う(根拠はない私の主観)。
これは無意識に日本語の五十音のフィルターを通して英語の音(発音)を聞こうとするためではないか。
学校でアルファベットを習うとき、Aを「えー」、Bを「びー」…と習っていくが、これが感覚を狂わせる有害な情報だと私は思う。Aは[eɪ]で、Bは[biː]というまったく別の音を使うのだと頭を切り替える必要があるのだと思う。例えば発音記号[ʃ]は「シュ」とはまったく別物で、ただ[ʃ]の口の形をして、流れのなかで歯擦音を発するだけであると区別することが必要なのだと思う。[ʃ]を「シュ」だと思って英語を聞くと、ものすごく複雑で大量の音を高速に発音しているように聞こえてしまう。
たとえば「Perseus( /ˈpɜːr.si.əs/, ペルセウス)」の発音を日本語の文字で無理やり表現すると「エァイェ」である。ペルセウス = エァイェなのである。話者が発音しているのを聞くと複雑な発音に聞こえるが、実はエァイェとしか発音していないのである。ただしエァは子音pの口にしておいてから発音し、イェは子音sの口にしておく。最後に口の形だけ子音sに戻す(実際に発音してみるとそれっぽく聞こえることが確認できると思う)。
だから日本語とまったく発音が別物なのである。難しいとか簡単とかではなくただそれだけなのである。しかしそれは学校では理解できるようには絶対に教えないのである。なぜ聞き取りができないのか、どう教えたら良いのかは分かっているのに絶対に教えないのである。
自立とはなにか
自立とはなにか。
私が思うに、言葉や概念としての「自立」は自立の状態を指す言葉ではない。
自立を「自立」という言葉やほかの言葉では真に説明することはできないと思う。
言葉で説明される自立の概念は理性によるもの。理性の扱える領域は感覚に比べて大変狭く、実際に対してフィットするものには原理的にどうしたってなり得ないと思う。
自立にはまず言葉が指す「概念」や「常識」から抜けることが条件だと思う。
自立の意味を説明されて、それに従って行動して、それが達成できた状態を("客観的"に)自立と呼ぶ…。
これって直感的になんだか矛盾を感じないだろうか?なんとも下らなく感じないだろうか?
「自立」という言葉は本当にそんな下らない状態を指すのだろうか?
「自立」ってそこまで人間を下らない存在に貶めた状態を指す言葉なのか?
純粋な子供が大人からこんなことを聞かされたら絶望するだろう。
自立にはまず言葉、概念、常識から抜けることが必要だと思う。
そして素直な心が求めるものと行動がマッチしているのが自立だと思う(この一文は水面下では言葉で説明しえないことは言葉で説明できないと言っている)。
暗い顔でつまらなそうに働いている人
この街では、暗い顔でつまらなそうに働いている人が多い。
しかし自分でどうにかしないことには、自立しないことには、それはなんともならない。
私がどうにかできるものではない。
不服な顔でいる人と接するとそっちに気分を持っていかれそうになる。
私はそっちに同調しないし、エネルギーも渡さない。
私はその感情に同調しないし、その世界観も共有しない。
自分でどうにかしないことにはその問題は解消できない。
だから私が同じ気分になったところで意味がないし、そんなことしたくない。