感謝ってなんだろう

以前も感謝について記事を書いた。

けど、感謝がなにかまだわからん。

 

告白しよう。

私は日常であまり感謝することがない。

感謝について考えるようになって、以前よりかはほんの少しだけそういう機会は増えたと思うが、ほんの少しだけだ。

 

他人の行動をぼんやり観察していると、「筋を通す」人の社会生活は平和だ。

筋を通さない人の予後は悪い。

 

なんか嫌な話だけど、ちょっと大事な話かも。

 

「筋を通す」ってのは、自分がされて嫌なことを人にしないこと。

これは言葉で言うほど簡単じゃなく、想像力を働かせて、「この行動をとったとき自分が相手の立場だったらどういう気持ちになるだろう」と考え、結果的に裏切るような真似を回避していくこと。嘘をつかない(誤った認識をもたせない)ことは大前提でその上で想像力を働かせる。

 

ちなみに筋を通すこととその人の人格の善悪は関係がない。知識の問題なので、善人でも筋を通さず、悪人でも筋を通すということがまま行われている。矛盾するように思われるだろうか。別に矛盾しない。

 

感謝ってなんだろう。悪人のことはいったん置いておいて、筋を通すことの基本的な動機は感謝のはずだ。筋を通さない行動を観察しているとどれもこれも感謝が欠落している。

 

もともと善人なのに筋を通さない人の行動を観察していると、特徴として自分の環境にほとんどありがたみを感じていない。

その環境があるのは、誰かの応援や愛情があったためなのだが、そういうものを一切気にとめてない。そのような気持ちに関心が向いていないし、ありがたみを感じていない。

 

ただ応援の気持ちがあったわけじゃない。応援した人はその人自身の悩みや困難があるなかで、いろいろ努力して工面して応援したわけだ。それを考えると切ないような、胸が締め付けられるような気持ちになる。

そのことに想像がおよばないのはなんとも無惨だ。筋を通さないとはそういう状況だ。

 

つまり感謝の気持ちがないとは他人の痛みに無関心、鈍感なのではないか。

他人の痛みに無関心、鈍感であるとは自分の痛みについても同様なのではないか。

 

それはなぜ?

 

それは自分が好きではないからではないか。

本当に自分が好きな人はこの不義理世界の行動から距離があるように思う。

 

では本当に自分が好きな人とはどういう人だろう。

それは自分がもともとしたいことと自分の意志や行動が合っている人ではないだろうか。