「どうしてあのとき」
私の認識では、いまのように詐術が全国民的に、ひいては世界的に行われるまえはある層が攻撃されていたと思う。
つまり働き盛りの若い男である。
「忙しくするために忙しくされ」、アイデンティティやそれに関するコンプレックスを徹底的に攻撃されていた。訳も分からず。まるで背後からの不意打ちだ。
この攻撃を経験した者はすでに履修済みのため、いまの狂騒からはほんの少しだけ距離を保っていると思う。
一方、詐術をはじめて喰らう層は大わらわだろう(これを詐術とは思わず、なんかわけのわからんややこしいことが立て続けに起こっているという認識かもしれない)。
この状況をみて、ひとつどうしても消えない思い・疑問がある。
それは「どうしてあのとき助けてくれなかったの?」である。
どうしてあのとき、苦しんでいたのを見ていたはずなのにほんの少しも助けてくれなかったのだろう。どうして「無いもの、存在しないもの」として見捨てたのだろう。
どうしてあのとき見捨てたのに、自分が同じ状況になったら苦しい苦しいと騒ぐのだろう。あのとき助けてくれたらそんな状況にはならなかったのに、と思う。
私が精神的に自立できておらず、考え違いをしているからこんなことを思ってしまうのだろうか。しかしどうしてもこの思いが消えない。
あれこれ考えた結果、ひとつぼんやり思うことは詐術にやられた日々をそんなに深刻に考えなくていいのだと思う。いかにそう思えても。詐術にそんな価値はないのだ。「はー馬鹿々々し…」で終いの内容である。
でもこれは努力と苦闘のすえにみつけた宝物のような知見である。他人からはけっしてそういわれたくない。